メデューサの首
頭髪の伸びている諸君は、ぜひとも私の話を聞いてほしい。
あなたがもし、今日の午後
妻から貰った3500円の散髪代を浮かせるために
カット料1800円の看板の、初めての床屋のドアを開けたとしたら、
この短編小説は少なからずあなたへの教訓になる
はずである
★
その剃毛は芸術的であった。
その床屋の中年の男の理容師は、剃刀で私のヒゲを剃りながら言った。
「実際、他人様に刃物を突き付けて金を巻き上げられるのは、チンピラか医者か理容師くらいなもんでして」
理容師は丁寧な手付きで、剃り終えた私の頬を純白のタオルで拭った。
電動椅子の、倒された背もたれから、私は理容師に言った。
「でも、アンタはチンピラじゃないね」
理容師はタオルを洗濯カゴに放り投げたが、店内は狭く、
カゴにタオルをゴールさせるのには何の技術も注意力も必要ないようだった。
スタッフはこの中年の理容師だけで、客も私一人だけ。
理容師は言った。
「そう、アタシはチンピラではない。もちろんです、医者でもない」
理容師がアフターシェービングローションを数十滴手のひらに馴染ませ、
それを私の肌に塗る。
ヒゲ剃りが芸術的で丁寧だったのに対し、ローションを塗りたくるときの理容師の手付きは
どこか不馴れでぞんざいだった、が、素朴な心地良さがあった。
徐々に私の脳の覚醒神経に睡魔が誘惑の呼び声を掛け始める。散髪中ではいつものことだ。
私生活で気になっていた事を、この理容師に尋ねてみても大丈夫だろうか?
「ねえ理容師さん、散髪中に寝ちまう奴ってのは多いんだろう?」
「少なくないですね。寝られるお客様は」
「その中には、イビキをかく奴もいるだろうね」
「寝ながらイビキをかかれるお客様もいらっしゃいますね。それが何か?」
「何でかくんだろ?イビキ」
「さあ?わたしは医者じゃありませんから解りません」
そう言うと理容師は新しいタオルを持って来て、
ローションでベトベトになった私の顔にフワリとかけて上から軽く押さえた。
タオルは余分な液体を吸い取った。
私はタオルの下からなおも尋ねる。
「確かにアンタは医者じゃない、理容師だ
医者は患者の内臓やレントゲン写真は診るが、寝顔なんかマジマジと見やしない
それに比べアンタは、理容師は、寝ている客がイビキをかこうがかくまいが
太ろうが痩せようが毛濃くても薄くても
必ず寝顔を凝視して、その凹凸を、肌のキメを、体毛の流れを、
よくよく見極めなければ商売にならない。
しかも多い人数だ。だろ?」
「ははあ。確かにそうですな」
「客のイビキと寝顔を観察する機会が多ければ多い程、正確な統計がとれる、
客の体格、声、顔の肉付き、イビキの音、間隔
様々な研究ができるだろう?」
「いやはや」
といって理容師はタオルをどかした。
その『まいったな』と言いたげな表情を私に見せるかのように。
そして
「アタシはイビキを研究する為にお客さんの髪を整えたり
熱々の蒸しタオルを被せたりしているわけじゃないですから」
と言った。
「あのね、お客さん。
やはりそういう問題・・・『何故人間がイビキを書くのか』は
耳鼻咽喉科の医者に尋ねるのが一番でしょう。
アタシは医者ではなく理容師ですから、イビキのことはわかりません
それにしても
何故そんなにイビキの事が気になるんですか?」
私は中年の理容師に、自分のイビキを妻に指摘された事を説明した。
理容師は、その他愛もない話・・・つまり私のイビキによる妻の寝不足と怒り具合をフンフンと聞いていた。
背もたれが起こされ、理容師が私の頭部から肩にかけてマッサージを始めた。
それはとても心地よかった。
私はいつの間にか眠ってしまっていた。
★
「お客さん、お客さん、終わりましたよ」
と、理容師にポンポン肩を叩かれて、私は深い眠りから目を覚ました。
すでに前掛けは取り外されていた。
まるで何日も気を失っていたかのように口の中がネチャネチャしていた。
料金を払わなくては。
私はズボンのポケットから財布を取り出しつつ、
身体に馴染んだ電動椅子から立上がった。
洗面台の鏡の向こうに見知らぬアフロパーマの男が立っている。
良く見ると、それは鏡に映り込んだ私だった。
そして、もっと目を凝らして良く見ると、
アフロパーマに見えていた物は、ゆっくりとした動きで少しづつ、その形を変えていた。
まるで髪の毛自体が生きているかの様・・・
「へ、ヘビだ!!」
私は驚いて大声をあげ、鏡の中の自分を指差した。鏡の中の私も目を剥いてこちらを指差している。
私の頭は、髪の毛の代わりに数百匹のヘビで覆われていた。
身体の細いヘビ達は生々しい緑色の身体をくねらせ、
私の意志とは関係なしに、互いに仲睦まじくからみ合っている。
ウロコとウロコが擦れあうカサカサという音が耳の上から聞こえた。
ヘビは私の頭の頭皮から放射状に生えていた。
「おい!おい!理容師さん!これは一体どう言う事だ!!」
と、私は中年の理容師につかみかかった。
「誰がこんな頭にしてくれって注文した!!」
「驚く気持ちは解ります。まあ落ち着いて」
「落ち着いてなんかいらんない!何故なら驚いてんじゃなく怒ってるからだ」
「無理もありません。お客様、申し訳ありません」
襟のない床屋服の胸ぐらを掴まれながら理容師は苦しそうに謝った。
しかし謝りつつも理容師は私の頭のヘビをチェックし、
その出来ばえに密かに満足しているようだった。
どうやら彼にとって私のこの頭は望んでいた成功なのだ。
私は理容師を離し、力を落として電動椅子にもたれ掛かった。
「何で?どうやってこんな事を?」
「解放する為です」
胸を撫で下ろしながら理容師は言った。
「統計から産まれた技術を解放するんです。遺伝子操作の技術を。
床屋でそれを実現するには、お客さん、あなたの頭をヘビにするしかなかったのです」
「なるほどね」
と、私は力無くうなずいた。
通常なら到底理解し難い言葉でも、
自分の頭からヘビがニョロニョロ生えてしまっているこの状況では、うなずくしかないのである。
理容師は静かに語りだした。
「お客さん。アタシは理容師になる前、
医者だったんです。
腕の良い医者でした。
患者の為に技術の進歩を願っていました。
技術の進歩のために革新的な医療実験をしました。
製薬会社の研究室を借りて秘密裏に遺伝子実験を行ったのです。
とても難しい実験でした。様々な動植物の遺伝子情報は、それが『生きている存在である』という側面と連動して、
時間の経過と共にデータの数値を変え、複雑に変容してゆくのです。
ヒトの遺伝子も然りです。ある程度操作は出来ても、完璧に制御はできないのです。
『ある程度制御可能な遺伝子操作』とは『完全に方向舵を失い暴走する原潜』よりも危険だと思いませんか?
製薬会社は研究結果の発表と臨床実験を急ぎました。
アタシは製薬会社の、利権的で危険な勇み足を咎めました。
彼ら・・・製薬会社は簡単にアタシを放り出しました。
金に目の眩んだ製薬会社の連中が、自分達の愚かさに気付いたのは、
自らの手ではただの一枚も遺伝子操作の特許申請書を書けないと知った時でしょう。
研究でまとめた膨大なファイルは全てアタシの頭脳に保存してあったのですから。
製薬会社はアタシを脅迫し、脅迫に屈しないアタシを迫害しました。
アタシにあらぬ罪を着せて裁判にかけ、医師免許を剥奪したんです。
だからアタシはもう医者じゃあない。
四日前にあなたに言った、医者じゃないってのは本当なんです」
「ちょっと待った」
と、私は理容師の話をさえぎった。
「二つ聞きたい事があるんだけれどいいかな?」
「どうぞ」
「私は、その・・・何時間くらい寝ていたのな?この電動椅子で」
「九十二時間です。ヘビの細胞は完全に成長するまでに四日間かかるんです」
「なるほど。もう一つ。アンタは理容師の免許は持ってるのか?」
「もちろん」
と理容師は答えた。
四日間だって。
私は頭を抱えたかった。実際にはヘビがいるので頭を抱える事はできない。
この、倫理的貞節に長けた元天才医師が、
一体どんな方法で四日間も私を眠らせたのかを聞く気力はもう無かった。
「とにかくアンタは、この私の頭で遺伝子操作の技術の解放をやってのけたわけだ」
「そうです、メスが剃刀に変わったように
研究結果の反映も患者からお客さんへ変わったのです」
と、やはり理容師は私の頭のヘビに満足げだった。
私は言った。
「やれやれ、どうりでヒゲ剃りが冴えてるわけだ。
ねえ、いきなりこの頭のヘビが暴走して核弾頭を発射したりしない?」
元医師の貫禄を微かににじませた声で理容師は言った。
「大丈夫です。アタシの研究の最終的な結論は、
ヘビと人間の細胞の相性と確実な安定性だったのです」
★
床屋を出た帰り道、私は浮いた散髪代1700円の使い道をあれこれ考えていた。
ヘビはじきになつくし、そうすれば髪型は自在とのことだった。
ふいに携帯電話の呼び出し音が鳴った。妻からだった。
「四日間も床屋に居たの?」
と不機嫌そうに妻は言った。
あの床屋で起こった出来事をどう説明すればいいのだろう?
「変な理容師に頭を改造されちゃってたんだ。心配かけてごめんね。
警察に捜索願いとか出した?」
「いいえ。まさか」
と妻はそっけない。
「大変なんだ、頭にヘビを植えられちゃったんだよ」
「メデューサみたいに?」
「そう、メデューサみたいに」
妻は少し動揺したみたいだった。
「困ったわね」
「何で?」
「だってあなた。ヘビの好物はカエルでしょう?」
私は少し考えてから言った。
「ヘビの好物はカエルだね」
「あなたのイビキね、カエルの鳴き声にそっくりなのよ」
頭上のヘビがカサカサ揺れて、
まるで頭にだけ風が吹いているみたいだった。
おわり
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